飫肥城趾
伊東家・800年続いた由緒ある家柄
2024年04月12日
飫肥城は11の曲輪を配した平山城で、江戸時代の前期には本丸と二の曲輪とされている範囲だけでも東西750メートル、南北500メートルの広大な城であった由。各曲輪は酒谷川に囲まれた北川の一段高いシラス台地を縦横に空堀で区切った壮大な規模で、南九州の中世城郭に於いて特別な形態と言う。戦国時代には代々島津氏一族が城主であったが、1587年に飫肥藩伊東祐兵(すけたけ)が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられ5万一千石の初代藩主となって以後、明治時代まで伊東氏の居城となった。現在本丸の跡地は飫肥小学校のグラウンドとなっている。なお、現在みられる城内の石垣の大半は1686年から1693年の大普請によって回週されたものだそうで大変立派なものだ。周りには小村寿太郎(日露戦争戦勝ポーツマス条約調印時の日本代表者)の生家、記念館、藩校である振徳堂などが点在する。
飫肥城下町は九州の小京都とも言われている。
住所: 宮崎県日南市飫肥10丁目1番1号 飫肥城趾
電話 : 0987-25-1905
関連コンテンツ
地図
関連情報